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参加チーム・ペナント


  1970年ワールドカップ・メキシコ大会
大会公式プログラム

 現在のようにワールド・カップがビッグビジネスになってしまったのはいつの大会からであろうか。少なくとも1970年のメキシコ大会はそうではなかった。それは、何事も経済が優先してしまう現在とは明らかに異なる、やや牧歌的な雰囲気を残した、しかし現在のようにチーム数が水増しされる以前の、16チームによる世界一を決定するまぎれもない大会であった。 今から35年前、日本ではサッカーはマイナー・スポーツの域を出ていない時代、ましてワールドカップ・サッカーの存在が一般には全くといってよいほど知られていない時代に日本からノコノコ観戦に行き、ペレの勇姿を拝めるという幸運にめぐり合った私の観戦記(観戦記というのはおこがましいが)と、その当時前後を中心とした日本サッカー界に記憶をフィードバックしてみました。

= 目次 =
  1. ツアー参加者は約50名、日本初のWカップ観戦ツアー
  2. 現地にて
  3. 準決勝(アステカ・スタジアム)
  4. 3位決定戦
  5. 決勝戦(アステカ・スタジアム)
  6. 大会参加チームのペナント
  7. アジア・オセアニア地区代表はイスラエル
  8. 日本ワールドカップ参加へ


      ツアー参加者は約50名、日本初のWカップ観戦ツアー
洞窟レストランにて
旅行ガイド

 セピア色になってしまい誠に見難い写真は洞窟のレストランでの会食風景。次回74年西ドイツ大会には日本から700名の観戦者が訪れたというが、この大会は50名の参加があった。前回66年のイングランド大会には欧州遠征中の日本代表が観戦したと記憶するが、ツアーはなかったはず。だからこの大会の観戦ツアーはワールドカップ・サッカー観戦ツアーの日本における第一回目だったはず。参加者には、後に日本代表監督になった石井義信さん、'05年サガン鳥栖の監督の松本育夫さん、当時の高校サッカー強豪校・浦和南の松本監督(写真後列右から7人目)などがいらっしゃった。他に日本テレビのアナウンサーの方が2名、プレス関係で取材に訪れた方は数えるほど少なかったという、今では信じられない時代であった。学生は私を含め3名。見学団ご案内(写真)をみると西鉄航空のツアー、持ち出せる日本円は一人2万円とある。ニクソン・ショックの前年、まだ1ドル=360円の時代、海外旅行そのものが現在のようにポピュラーではなかった時代である。

    


     現地にて
市内観光(ピラミッド)

 心配された高地による酸素不足は全く感じなかった。選手は大変だったようですが。

    


     準決勝(アステカ・スタジアム)
準決勝イタリアvs西ドイツ


イタリア代表
西ドイツ代表






















































イタリアの勝利を伝える
現地新聞

 現在のようなチケット争奪騒ぎなどが嘘のような時代だったのでしょうか、観戦試合は準決勝、3位決定戦、決勝戦の3試合。いずれもメキシコ・シティのアステカ・スタジアム。  今日では日産スタジアム、埼玉スタジアムなど巨大なスタジアムが日本にも存在しますが、初めて見るサッカー専用スタジアムの巨大さにひたすら圧倒される。

(準決勝)西ドイツvsイタリア 1970年6月17日 16:00キックオフ
イタリア:GK@アルベルトシ DFAブルニチ、Bファケッティ、Dチェラ、Gロサート、MFIベルティーニ、Lドメンギーニ、Nマッツオーラ、Oデ・システィ FWJリーバ、Sボニンセーニャ
西ドイツ:GK@マイヤー DFBシュネリンガー、Dシュルツ、FフォクツNバッケ MFCベッケンバウアー、Hゼーラー、Kオベラート、 FWLミューラー、Pレール、Sグラボウスキー
主審は日系メキシコ人のYAMASAKIさん
 初端からワールドカップ史上に残る名勝負を堪能することになる。スター選手は目白押し、イタリアでは大型バックスのファケッティ、インテルの指揮官マッツオーラ、サルジニアの太陽といわれたカッリャリのリーバ。西ドイツでは74年の優勝で日本にもおなじみのGKマイヤー、先般までドイツ代表監督のフォクツ、ベッケンバウアーは説明の必要はないであろう、ゲルマン魂の権化といわれたウーベ・ゼーラー、左足の芸術家オベラート、ボンバーことミューラーも説明の必要はないでしょう。
 準決勝までの両チームの戦績をみると、イタリアは1次リーグを1勝2分で1得点、無失点としぶとく勝ち上がってきたが、準々決勝では地元イタリアに4−1の快勝、一方西ドイツは1次リーグ3戦全勝10得点、4失点。準々決勝では前回の決勝で疑惑のゴールで負けたイングランドに0−2から追いつき、延長戦の末3−2の逆転勝利で雪辱を果たしているが、激戦の延長戦の疲れというハンデを背負っての準決勝。
 システムはイタリアが4−4−2、一方の西ドイツは4−3−3。8分にボニンセーニャがリ−バとのワンツーを失敗するが相手バックスに当たり、結果的に足元にきたボールをペナルティボックスの少し外から左足でシュートしてイタリアが先制。両チームの個人技のレベルの高さに酔いしれる。その後、ミューラーの惜しいシュートなどあるが、イタリアもリーバのヘディングシュートが左に外れ、終了間際にはマイヤーの5ステップスのファールにより得たFKをリーバが壁に当てたところで前半終了。
 後半初めからついにリベラがマッツオーラに代わって登場。リベラはミランのゲームメーカーでインテルのゲームメーカーのマッツオーラとは並び立たないと言われていたプレーヤーだったが、フィジカル的にすこし弱いとも言われていた。両チームとも惜しいチャンスが何回もあり、今日のガチガチの守備的なサッカーではなかったように思う。オベラーツのシュートはバーに跳ね返される、ベッケンバウアーがドリブルで突っ込みペナルティエリアぎりぎりのところで倒されるがPKにはならず、イエローカード(イエローカードはこの大会から採用された)。この時にベッケンバウアーは肩を負傷、そのまま時間が過ぎロスタイムに突入。だが当時の日本でもゲルマン魂というのは知られていたし、何か起きると期待していたら、案の定グラボウスキーが左からセンタリング、これをシュネリンガーがGKの前で右足で合わせて同点、場内騒然のうち延長戦に。
 延長に入るとベッケンバウアーが右肩脱臼のためバンテージで右手が使えない状態で登場。延長前半4分、CKの折り返しをミューラーがいかにも彼らしい、バックスとGKともつれ合うようなどんくさいシュートを決めついにこの試合で初めて西ドイツがリードを奪う。しかし8分にFKから相手バックスに当たって跳ね返ったボールをブルニチが決めて同点。さらに13分にリーバが得意の左45度のシュートを決めイタリア3−2で延長前半を終了。延長前半だけで3つのゴール!ただただ興奮しまくっていたが、ドラマはまだ終わっていなかった。延長後半4分、CKからゼーラーがヘディングで折り返し、これをミューラーが身を乗り出すように今大会10得点目をHSで決め3−3の同点。直後、ボニンセーニャの左からのクロスをリベラが決めてイタリア4−3.さすがに西ドイツにはもう反撃する力が残っていなかった。試合終了と同時に脱力感に襲われ、しばらく茫然自失の状態だったと記憶する。もう二度こんな壮絶な試合を見られないかもしれないというような不安感にかられもした。
 戦術的には前回の大会でスウィーパー・システムが確立、スウィーパーの位置が深いので当然オフサイドは少なくこの試合でも、ほとんど記録されてないと思う。なお優勝したブラジルだけが4−3−3でゾーン・ディフェンス。
1 --- 0
イタリア 0 --- 1 西ドイツ
延長
2 --- 1
1 --- 1
-------------
4 --- 3

    


     3位決定戦
3位決定戦チケット
ウルグアイ代表

VIVA ALEMANIA!
西ドイツ 1 --- 0 ウルグアイ
 心情的には準決勝を延長で敗れた西ドイツを応援していた。でも、所詮3位決定戦、あまり記憶には残っていない。ウルグアイは当時南米ではブラジル、アルゼンチン(今大会はペルーに足をすくわれて出場していない)とともに強豪3国の一角を占めていた。GKに世界一といわれたマズルケビッチを擁していた。

    


     決勝戦(アステカ・スタジアム)
決勝戦チケット
決勝戦試合前セレモニー
両国の国旗の横に何故か
クラブチームのエンブレム
AZTECA
ブラジル・チームのゴール
(後半)
ブラジルの歓喜
ブラジル代表

(決勝戦)ブラジルvsイタリア 1970年 6月21日 12:00キックオフ
 「ペレって凄かったのですか?」とよく聞かれる。正直に言ってしまうと、それほど強烈な印象は残っていないのです。確かにこの試合でも1ゴール、2アシストで勝利の立役者には違いない。いぶし銀の活躍はしている、ゴッドハンドなんかしない正真正銘の神様なのかもしれない、でも同じメキシコ大会でも86年のメキシコ大会のマラドーナのような5人抜きだとか他の試合でもみせてくれたゴールの数々で天才を印象付けてくれるようなシーンは決勝戦では見せてもらえなかった。この大会でペレは4ゴールを挙げているが、そのゴールシーンは日本では放映されなかったし、準決勝のウルグアイ戦で惜しくもゴールはならなかったがすばらしい閃きをみせてくれたシュートぐらいしか記憶に残っていない。つまり現在のように映像がいやでも飛び込んでくる時代と違って、あまりにも情報量が少なくて印象がうすいのであろうか。なにしろ日本を出発するまで、今大会の報道は新聞の片隅に結果が小さく載るだけであった。たった1試合だけではなんとも言えないのですが、たぶんペレは全盛期を過ぎていたのだと思う。
 さて試合のほうですが、この日は朝まで雨が残って、試合開始の12時(欧州の放送時間に合わせたのでしょう)には晴れていたが蒸し暑かった。準決勝で消耗しきっていたイタリアには過酷なコンディションであり、この時点で勝敗は決していたのかもしれない。抽選で3人だけのゴール裏の最前席に近いところのチケットがあたる。主審は東ドイツ人。
(ブラジル)GK@フェリックス、DFAブリット、Bピアザ、Cカルロス・アルベルト、Oエベラルド、MFDクロドアルド、Gジェルソン、Jリベリーノ、FWFジャイルジーニョ、Hトスタン、Iペレ
(イタリア):GK@アルベルトシ DFAブルニチ、Bファケッティ、Dチェラ、Gロサート、 MFIベルティーニ、Lドメンギーニ、Nマッツオーラ、Oデ・システィ
FWJリーバ、Sボニンセーニャ
 ブラジルのカルロス・アルベルトは名古屋グランパスで活躍したトーレスの親父、ジェルソンがゲームメーカー、トスタンは白いペレと言われた。左足のスペシャリスト、リベリーノが左ウイングとハーフを兼ねるような4−3−3と4−4−2の中間システム、一方のイタリアは4−4−2でスイーパーを置いていた。
 前半17分、反対サイドのゴール前で褐色の選手がジャンプ、ヘディング・シュートがゴールに吸い込まれる。ペレの先取点。35分、ブラジル選手のヒールパスをボニンセーニャがかっさらい、さらにGKまでかわして同点に。最近はブラジルも良いGKが輩出するようになったが、当時はブラジルの唯一の欠点はGKだと言われていた。ただしこの失点はGKの責任ではありません。後半、20分にジェルソンの左足が炸裂してブラジルが再びリード、その後ペレのヘディングの折り返しをジャイルジーニョが決め3−1、さらに41分にペレが絶妙の間合いで右にはたき、これを後ろから走りこんできたカルロス・アルベルトが叩き込み4−1、あっけないほどのブラジルの楽勝ゲーム。最後までペレの足技による相手を抜く妙技は見られなかった。ブラジルはFWの選手も今では当たり前の前線から守備をするのと、前回大会の惨敗を教訓にしてのフィジカルの鍛え方も印象に残っている。いずれも現代フットボールの萌芽を感じさせるものである。ペレも完成したチームの中の駒としてあまりにもきれいにはまり過ぎていて、天才振りが当時の私にはわからなかったのでしょうか。
1 --- 1
ブラジル       イタリア
3 --- 0
-------------
4 --- 1

    


     大会参加チームのペナント
チェコスロバキア(上)
イングランド(下)
モロッコ(上) 西ドイツ(下)
ブルガリア(上) ペルー(下)
スウェーデン(上)
イスラエル(下)
ルーマニア

大会参加16チームの戦績はワールドカップ・データベースを参照にしていただきたい。
http://members.jcom.home.ne.jp/wcup/

    


     アジア・オセアニア地区代表はイスラエル
イスラエル代表

日本代表の予選での成績どうだったのか?
 1969年10月、日本は韓国、オーストラリアとソウルでのセントラル方式(2回戦総当り)の予選に臨む。もともとこの組にはアフリカのローデシア(現在のジンバブエ)が政治的な理由で入っていたが、やはり政治的な理由でローデシアが除外され、結局3チームでおこなわれた。メキシコ五輪の次の目標をこの大会に置いた日本だが、釜本を肝炎で欠くという非常事態。初戦のオーストラリア戦を1−3で落とすが、次の韓国戦を追いついて2−2と引き分け。オーストラリアは韓国に2−1と勝ち、早くも勝点4とし優位に立つ。そしてオーストラリアとの第2戦は追いつかれ1−1の引き分け。この時点で勝ち点2、早くも日本の予選敗退が決定。最終戦は韓国に0−2の敗退。結局韓国との最終戦を引き分けたオーストラリアが次ラウンドへ進出した。この敗退が日本サッカー冬の時代の始まりであったと思う。70年代はソ連の極東のクラブチームにも日本代表が勝てないという悲惨な状況にあり、日本代表がW杯に出場することは夢の夢で、私自身日本のサッカーに絶望した時代だった。
 1位 オーストラリア 2勝2分 勝点6
 2位 韓国 1勝1敗2引き分け 勝点4
 3位 日本 0勝2敗2引き分け 勝点2(当時は○勝点2、△勝点1)
 なお、オーストラリアはローデシアとの激戦を制するが、最終予選でこの当時アジア地区に在籍していたイスラエルに敗退して、出場を逃す。イスラエルは68年のメキシコ・オリンピックに出場したチームがベースとなり、中盤にローゼンタール、FWにシュピーグラーという好選手を擁していた。スウエーデン、イタリアに引き分けは立派な成績であろう。当時のアジア・クラブ選手権で東洋工業がイスラエルのクラブ・チームと対戦した記憶がある。
イスラエル 0−2 ウルグアイ
イスラエル 1−1 スウェーデン
イウラエル 0−0 イタリア

    


     日本ワールドカップ参加へ
朝日新聞1967年11月9日

 ここに今となっては時代を感じさせる新聞記事がある。(1967年11月9日朝日新聞)「日本サッカー ワールドカップ・サッカー参加へ」。 若いサッカーファンはこの記事の意味が良くわからないのではありませんか?そう、この頃はW杯に参加するとアマチュア資格を剥奪されるということで、参加を見合わせていたのが、規定が変わり門戸が開かれたということ。日本にとってワールドカップはやや別世界の話であり、その程度の位置づけにしかなかった。この時からW杯出場まで約30年も要した原因はこのあたりにあるのではないでしょうか。

    



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